「見える世界」と「見えない世界」の違いではなく、「見える世界」と「触る・感じる・想像する世界」の違いだった。

外苑前にある「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」をシステムコーチの仲間8人で貸し切りで体験。あの暗闇で体験したことが、私には衝撃的で、30時間経過した今でも様々な感覚と問いが沸いている。暗闇の中、仲間に支えられながら、橋を渡ったり、縁側でくつろいだり、こたつでトランプをして遊んだり。最後はバーでお酒まで飲むのだが、一筋の光もみえない暗黒の闇の中、聴覚、臭覚、触覚のアンテナがのび、声をかけあったり、手をとって支え合ったりしていくうちに、自分以外の存在の温かさを感じ、暗くて怖いどころか、安心感というか包まれて癒やされている感覚が起こる。

頼もしいガイドのランランは全盲で、そこでは彼女がいないと我々は全くの無力なのだった。見える世界と見えない世界があるのではない。見えないことは確かに不便であるだろうが、使う器官が違うだけ・・個性や特徴の差に近いのかもしれない。健常者として恵まれている側、障がい者として色んな制約の中生きている側、と、無意識にサポートする側にいる気になってた自分に気づく。ここは視覚が閉ざされた人を想像し体験する場ではない。無力な素の自分を信じ、相手を感じ、して欲しいことを想像し、繋がることを体感する場なのかもしれない。視覚があって一望できることで観えにくくなっている大事なもの。それが何かはまだ上手く言葉にできないが、今後も自分の中で問いかけていきたいテーマだ。暗黒は怖い場所ではなく、いつもより温かく安心な場所だった。仲間の一人が、視覚が閉ざされている世界ではまず戦争は起こらないだろうと言った。会場を出る時間になっても、まだもう少しこの安心な場に居たいと感じた。